「お母さんの入れ歯が合わなくなってきたみたいで…でも、寝たきりだから歯医者さんには連れて行けないし…」

こんなお悩みを抱えていらっしゃる方は、決して少なくありません。私のもとにも、介護をされているご家族から、同じような相談がたくさん寄せられます。

はじめまして。歯科医師として25年間、患者さんのお口の健康を見守ってきた田島美和と申します。世田谷区で予防歯科のクリニックを開業し、地域のみなさまのお口のケアに携わってまいりました。そして50代を迎えた頃、私自身も母の介護を経験することになりました。

その経験を通じて痛感したのは、「通院できない」ということが、どれほど大きな壁になるかということです。歯の痛みや入れ歯の不具合は、食べる楽しみを奪い、全身の健康にも影響を及ぼします。それなのに、病院に行けないというだけで、我慢し続けなければならない——そんな状況は、本当につらいものです。

でも、ご安心ください。実は「訪問歯科診療」という選択肢があるのです。歯科医師や歯科衛生士がご自宅に伺い、ベッドの上でも治療や口腔ケアを受けることができます。

この記事では、訪問歯科診療の基礎知識から、費用、申し込み方法まで、介護に奮闘されているご家族のみなさまに向けて、できるだけ分かりやすくお伝えしていきます。「知らなかった」で諦めてしまう前に、ぜひ最後までお読みください。

訪問歯科診療とは?自宅で受けられる歯科治療の仕組み

訪問歯科診療とは、病気や障害、高齢などの理由で歯科医院への通院が難しい方のために、歯科医師や歯科衛生士がご自宅や入所されている施設に訪問して行う歯科診療のことです。

「えっ、歯医者さんが家に来てくれるの?」と驚かれる方も多いのですが、これは特別なサービスではなく、医療保険や介護保険が適用される正式な医療行為です。厚生労働省も在宅医療の充実を重点課題として掲げており、訪問歯科診療の体制整備が全国で進められています。

訪問診療では、ポータブルの歯科用機器を持参しますので、通常の歯科医院で受けるのとほぼ同じ治療を、ご自宅で受けることができます。歯を削る機械から、レントゲン、入れ歯の調整に必要な道具まで、必要な器材を揃えて伺いますので、どうぞご安心ください。

訪問歯科で受けられる治療内容

訪問歯科診療で対応できる内容は、実に幅広いものです。以下に主な治療内容をまとめました。

治療の種類具体的な内容
むし歯治療むし歯の除去、詰め物、被せ物の処置
歯周病治療歯石除去、歯ぐきの炎症改善
入れ歯関連新しい入れ歯の作製、調整、修理
抜歯痛みの原因となる歯の抜歯処置
口腔ケア専門的なお口の清掃、衛生指導
摂食・嚥下リハビリ飲み込む力を維持・改善するための訓練

特に、入れ歯の調整や口腔ケアは、訪問診療で多く行われている内容です。入れ歯が合わないと、食事がつらくなるだけでなく、お口の中を傷つけてしまうこともあります。「我慢すれば使える」と思わず、早めにご相談いただきたいと思います。

ただし、大がかりな手術や特殊な設備が必要な治療については、やむを得ず歯科医院での対応が必要になる場合もあります。その際は、担当の歯科医師から適切なご案内をさせていただきます。

訪問歯科を利用できる方の条件

訪問歯科診療は、「通院が困難な方」が対象となります。ここで大切なのは、要介護認定の有無だけで判断されるものではないということです。歯科医師が、お一人おひとりの状況を見て、適切に判断いたします。

具体的には、以下のような方が訪問歯科診療の対象となります。

  • 寝たきり、または寝たきりに近い状態の方
  • 歩行が困難で、一人では外出できない方
  • 認知症があり、通院が難しい方
  • 脳卒中の後遺症などで身体に麻痺がある方
  • 重い病気で療養中の方
  • 障害により移動に支援が必要な方
  • 介護施設や病院に入所・入院されている方

「うちの親は要介護認定を受けていないけど…」という方もいらっしゃるかもしれませんが、ご心配いりません。介護保険の認定がなくても、医療保険での訪問診療を受けることができます。まずは、歯科医院や訪問歯科の窓口にご相談ください。

なお、保険診療として訪問歯科を受けられるのは、歯科医院から半径16km以内にお住まいの方が基本となります。これを超える場合は自費診療となりますが、近くに訪問診療を行っている歯科医院がない場合など、特別な事情があれば保険適用となることもあります。

訪問歯科の費用はどのくらい?保険は使えるの?

「訪問してもらうと、費用が高くなるのでは…」というご心配の声をよく聞きます。確かに、わざわざ来てもらうのだから、特別料金がかかるのでは、と思われるのも無理はありません。

結論から申し上げますと、訪問歯科診療には医療保険と介護保険が適用されます。治療にかかる費用そのものは、歯科医院に通って受ける場合と同じです。

ただし、訪問診療ならではの費用として「歯科訪問診療料」が加算されます。また、要介護認定を受けている方は「居宅療養管理指導料」という介護保険の項目も算定されます。

以下に、費用の目安をまとめました(1割負担の場合)。

費用項目自己負担の目安
歯科訪問診療料(ご自宅で1人のみの場合)約1,100円
歯科訪問診療料(施設で複数人の場合)約310〜410円
治療費(入れ歯調整の場合)約100〜360円
治療費(歯石除去の場合)約70〜770円
居宅療養管理指導料(歯科医師)約450〜500円/回
居宅療養管理指導料(歯科衛生士)約300〜350円/回

1回の訪問あたり、自己負担1割の方で2,500〜3,000円程度が目安となります。もちろん、治療内容によって変動しますので、事前に歯科医院にお問い合わせいただくと安心です。2割負担、3割負担の方は、それぞれ2倍、3倍になります。

交通費や出張費については、歯科医院によって対応が異なります。無料としているところも多いですが、念のため確認しておくとよいでしょう。

なぜ高齢者の口腔ケアが大切なのか

「歯医者に行けなくても、そんなに困らないのでは…」とお考えの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、高齢者の口腔ケアは、単なる「歯のお手入れ」以上に重要な意味を持っています。

実は、お口の健康は全身の健康に直結しているのです。

特に注意していただきたいのが「誤嚥性肺炎」です。誤嚥性肺炎とは、お口の中の細菌が唾液や食べ物と一緒に誤って気管に入り、肺で炎症を起こす病気です。高齢者の肺炎の多くがこの誤嚥性肺炎であり、90歳以上の方の死因では2位にも挙がっています。

ここで注目していただきたいのが、口腔ケアの効果です。2001年に発表された研究(米山武義らによる「要介護高齢者に対する口腔衛生の誤嚥性肺炎予防効果に関する研究」)では、専門的な口腔ケアを受けたグループは、受けなかったグループに比べて肺炎の発症率が約40%も低下したという結果が出ています。

厚生労働省のe-ヘルスネット「訪問歯科診療」でも、在宅要介護高齢者への歯科医療の重要性が解説されています。口腔ケアは、命を守るケアでもあるのです。

口腔ケアがもたらす効果は、誤嚥性肺炎の予防だけではありません。

  • 虫歯・歯周病の予防と進行抑制
  • 口臭の改善
  • 味覚の回復(舌の汚れを取ることで、食べ物の味が分かりやすくなる)
  • 認知症リスクの低減(歯が20本以上ある人は、ほとんどない人に比べて認知症になるリスクが約半分という報告も)
  • インフルエンザ予防(専門的口腔ケアを受けた施設では、発症率が10分の1になったという報告も)

そして何より、お口の状態が良くなれば、食事を美味しく食べられるようになります。「食べる」という行為は、栄養を摂るだけでなく、生きる喜びそのものです。ご家族みんなで食卓を囲んだ思い出、好物を頬張った幸せ——そうした「食べる楽しみ」を、できるだけ長く守っていただきたいと、心から願っています。

訪問歯科の申し込み方法と流れ

「訪問歯科を利用してみたい」と思われた方のために、具体的な申し込み方法と流れをご説明します。

申し込みの窓口は、いくつかあります。

  • かかりつけの歯科医院:以前通っていた歯科医院が訪問診療を行っている場合は、直接ご相談ください
  • 日本訪問歯科協会:フリーダイヤルでお近くの訪問歯科を紹介してもらえます
  • ケアマネージャー:介護サービスを利用されている方は、担当のケアマネージャーにご相談ください
  • 地域の歯科医師会:お住まいの地域の歯科医師会に問い合わせると、訪問診療を行っている医院を教えてもらえます
  • 地域包括支援センター:高齢者の相談窓口として、適切な医療機関を紹介してもらえます

訪問歯科診療を探す際は、日本訪問歯科協会のウェブサイトが便利です。地域から訪問診療を行っている歯科医院を検索することができます。

申し込みから治療までの流れは、以下のようになります。

  1. お問い合わせ
    電話やFAXで連絡し、訪問診療を希望する旨を伝えます。患者さんの状態や住所などを簡単にお伝えください。
  2. 日程調整
    歯科医院から連絡があり、初回訪問の日時を決めます。ご家族の立ち会いが可能な日時をお伝えください。
  3. 初回訪問・検査
    歯科医師がお口の中を診察し、必要な治療内容を確認します。治療計画を立て、今後の流れをご説明します。
  4. 治療開始
    計画に基づいて、治療を進めていきます。1回の訪問は20〜30分程度が一般的です。
  5. 定期的な口腔ケア
    治療が完了した後も、定期的な検診や口腔ケアをお勧めしています。歯科衛生士による専門的なケアで、お口の健康を維持します。

初回訪問の際には、以下のものをご用意いただくとスムーズです。

  • 健康保険証
  • 介護保険証(お持ちの方)
  • お薬手帳(服用中のお薬が分かるもの)
  • 現在使用している入れ歯(ある場合)

訪問歯科を利用する前に知っておきたいこと

よくある不安と解消法

訪問歯科診療を検討されている方から、よくいただくご質問にお答えします。

「治療は痛くないですか?」

ご安心ください。外来診療と同様に、必要に応じて麻酔を使用しますし、患者さんの体調を見ながら無理のない範囲で進めます。痛みや不安がある場合は、遠慮なくおっしゃってください。

「家に来てもらうのは申し訳ない気がして…」

そんなふうに遠慮される必要はまったくありません。訪問歯科診療は、通院が難しい方のための正式な医療サービスです。私たち歯科医療従事者にとって、患者さんのお口の健康を守ることは喜びであり、使命です。どうぞ気兼ねなくご依頼ください。

「家族が留守でも大丈夫ですか?」

介護施設にいらっしゃる場合は、施設のスタッフさんと連携して治療を行いますので、ご家族のお立ち会いは必須ではありません。ご自宅の場合は、できれば初回はご家族に同席いただくことをお勧めしています。治療内容の説明や、今後のケア方法についてお伝えしたいからです。その後は、状況に応じてご相談させていただきます。

「認知症があっても診てもらえますか?」

もちろんです。認知症の方への対応に慣れた歯科医師・歯科衛生士が伺います。お口を開けていただくことが難しい場合もありますが、その方のペースに合わせて、できることから少しずつ進めていきます。

訪問歯科のメリット・デメリット

訪問歯科診療のメリットとデメリットを正直にお伝えします。どちらも理解した上でご利用いただければ幸いです。

メリットデメリット
通院の負担がなくなる治療内容に一部制限がある
慣れた環境でリラックスして治療を受けられる予約の調整が必要な場合がある
ご家族も一緒に説明を聞ける訪問診療を行っている医院が限られる地域もある
全身状態を考慮した治療が受けられる初回は多少の準備が必要
定期的な口腔ケアで健康維持ができる

デメリットとして挙げた「治療内容の制限」についてですが、入れ歯の作製や虫歯治療など、日常的に必要な治療のほとんどは訪問診療で対応可能です。特殊な治療が必要な場合のみ、歯科医院への通院や病院への紹介をご相談することがあります。

まとめ

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。訪問歯科診療について、少しでもご理解を深めていただけたでしょうか。

改めてお伝えしたいのは、「通院できないから」という理由で、歯科治療を諦める必要はないということです。訪問歯科診療という選択肢があります。

  • 訪問歯科診療は、医療保険・介護保険が使える正式な医療サービス
  • 自宅や施設で、外来とほぼ同じ治療を受けられる
  • 要介護認定がなくても利用可能
  • 費用は1割負担で1回2,500〜3,000円程度が目安
  • かかりつけ医、ケアマネージャー、日本訪問歯科協会などに相談できる

口腔ケアは、誤嚥性肺炎の予防など、命を守ることにもつながります。そして、「美味しく食べる」という、人生の大きな喜びを守ることでもあります。

歯科医師として、そして介護を経験した一人として、私は声を大にして申し上げたいのです。「お口のことで困っているなら、まずは相談してみてください」と。

介護をされているご家族のみなさまは、日々本当にお疲れさまです。お一人で抱え込まず、使える制度やサービスは上手に活用してください。訪問歯科診療が、ご本人とご家族の生活を少しでも楽にするお手伝いになれば、これほど嬉しいことはありません。

歯の健康は「歳を重ねてからが本番」です。いくつになっても、お口から健康を守ることはできます。どうぞ、諦めないでください。